学べるということ
まさか、11月に東京で雪が降るとは思ってもみませんでした。
驚いたのは、雪降りしきる中を自転車で走る人が結構いたということです。
凄い根性です!?
思いのほか降り続き心配しましたが、クラスが始まる前にはどうにか止んで、生徒の足にあまり影響はありませんでした。
でも、雪は止んでも冷気は残りますからね。
どうしても、外に出るのが億劫になります。
根性と愛情と、寒さの分だけ、キッズが親に感謝するのなら、雪でも何でも降ってこい!
そう思える雪景色は悪くありませんでした。
そもそも、雪自体はまだ少しワクワクする部分があります。
それにキッズが喜ぶ雪を、その前で「大変だー、面倒だー、寒いー」なんて否定的な事は言いたくありません。
かつて私は自分の価値観を基準に嫌いなモノには平気で否定していました。
大学の先輩と子供についての話をしている時でした。
私は、キッズがダラダラしていて、それが私の嫌いなアニメのキャラクターに似ている事から、そのアニメ自体をキッズの前で否定しました。
実際にその子はそのキャラが大好きでした。
先輩はそんな私に「あまり人の好みを否定するのは良くない。言われた方は気分が悪い。それでは信用をなくす。」とサラッと指摘してくれました。
価値観には経験や歴史や環境や、その人独自の成り行きがあるわけですからね。
人が好みのモノを否定するって事は、少なからずその人の事自体を否定するのと同じと思います。
教育に信頼は不可欠ですし。
頭ごなしの否定から出て来るのは絶望と諦めで、そこに希望も未来もありゃしません。
小学生の多分4年か5年生の頃だと思います。
空気銃片手によく土手で遊んでいましたっけ。
その頃、30歳は凄くオッサンだと思っていました。
オッサンと言っても老け込むと言う意味でなく、何でも知っている立派な大人というニュアンスです。
40歳なんか、みんな世の中の事全て把握した偉人に違いない、なんて思っていました。
とんでもありません。
学生の頃にどこから来たのか、なんとなく世を知った気になり、いい気になっていた分のしわ寄せが今になって恥となり押し寄せて来ています。
“恥を知るには勇に近し”なんて言いますが、いやいやそんなもん勇気でも何でもありません。
無知に対する恐怖と焦りから、恥もヘッタクレも無くなっているだけのことです。
タイムマシーンがあったら、土手でボケっとしている自分を一度小突いてから忠告してやりたいです。
「ちゃんと勉強しなさい」って。
色々気が付くのが遅く40過ぎてしまいましたが、ようやく学べる事と学ばせてくれる人がいる事はありがたく、とても幸せな事だと思えるようになりました。
80でも90になってもずっと学ぶ事に意欲があれば、多分それは素敵な人生と言える気がします。
果たして、40年後の自分はいったい今の自分になんて声を掛けたいのか、気になるところです。
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