私と英語
![Me and English](https://www.worldoyamatokyo.com/wp-content/uploads/2023/04/DSC_06601.jpg)
玄関に入り込む桜の花びらは力なく、どこか寂しそうに散らばっています。
でも、掃いても掃いても無くなりません。
しつこいことに、数枚はドアを閉めるときにまた風圧で舞い戻ってきます。
なんだか自然物の底力のようなものを感じてしまいます……!?
さあ、新年度が始まりました。
損得に左右されることなく、苦手意識をあまり気にせずに、様々なことを受け入れて
多くの経験を積んでいければいいなと思います。
さて、私の強み、というか特徴は大山康彦の内弟子だったという事が一つ。
それともう一つはアメリカでやっていたということ。
英語が話せる。
と言っても酷いレベルですが。
まあ、そこじゃなくて、英語圏で生活していた経験から得たものをお伝え出来ればと思っています。
英語に限らず、その国の言葉、単語も文法もそりゃ出来た方が良いのは間違いありません。
ただ、知らないからと言って会話や生活出来ないってこともないわけで、表情や身振り手振り使い伝えることは可能なわけです。
先日初登場したうちのシーズー犬、ララですが、まあ伝えるのが上手で、すぐに甘やかしてしまう私がいるわけです。
その度に、なんだか自分のダメというか、面倒な部分をチッポケに感じるわけです。
人はしゃべれるし道具に頼れてしまうから、誤魔化しや疑いや嘘やら、なんやかんや複雑にしてしまう。
挙句、複雑で面倒で自爆するダサいところがある。
さておき、そもそも私は英語が嫌いだったわけですが、アラバマの道場で転機が訪れます。
これは長い内弟子生活、空手に対しても一つの転機となりました。
内弟子生活が2年目に突入した時でした。
私は緑帯(4級)。
普段の稽古では大人のクラスは最高師範が、子供のクラスは先輩達が仕切っていたので私は何の責任感もない生活を送っていました。
アラバマ本部では、当時、道場以外にも週に一度、道場から車で30分程の施設で子供クラスがあり、先輩や他の黒帯が交代で指導に当たっていました。
突然、私がその担当にさせられたのです。
稽古も英語も出来ない緑帯がいきなりですからね。
まあ、焦りましたよ、最初は。
ただ、ここは腹をくくりました。
兎に角一生懸命やろうと。
内弟子ってそういうものですからね。
そこからですよね、私が稽古に対する意識が変わったのは。
比例するように英語に対する意識も変わっていきました。
稽古していて先ず気付いたのは、こっちが不安や焦りを抱えたまま稽古をしていても、生徒には何も伝わらない。
それどころか、生徒も親も不安になっていたと思います。
でも、一生懸命稽古と生徒に向き合うと、意思の疎通が出来るもんで、それって単純に嬉しいし、教えている生徒が成長する姿を目の当たりに出来る喜びは自信にもなりました。
余談ですが、そもそも道場から外に出られるだけで少しワクワクしたものです。
途中、ドライブスルーでハンバーガーを買って涼しく快適な場所で食べることは至福の喜びでした。
内弟子ってそんなもんです。
はて、最初は嫌だった指導が次第に楽しくなっていきました。
ほどなくして、本部道場での無料体験の指導は全て自分が受け持ちました。
生徒が増えるかどうかに関わりますからね、そりゃ責任重大です。
生徒の中には3歳児から年配の方、盲目の人も、聴覚障害の方もいました。
今となってはその全ての経験が宝となっています。
これは大会で優勝するよりも貴重な経験だと思っています。
因みに、私が受け持った無料体験者のほぼ100%が入会してくれました。
勿論、時が経てば英語の上達もあったでしょうが、なによりも「伝える」情熱、能力が大事と思うようになりました。
今思えば、私の英語力が低かった、限られた単語しか使えなかったからこそ言葉に頼らず身振り手振り体ごとぶつかったのが良かったのかも知れません。
さて、道場では、生徒同士で指摘し合うケースをよく目にします。
生徒は、自身の帯、階級に責任を持ち「伝える挑戦」をしているように感じます。
同じような稽古、課題を経験するうちに、精神的にも技術的にも相手の気持ちが良くわかる者同士、刺激し合い、競い合い、助け合いながら時間を共有するのって悪くない。
これ、「伝える」という意味では英会話と同じだと思います。
言葉がどう、単語がどう、上手く言えない、等々不安もあると思いますが、身振り手振りで結構いけます!
では
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