ココロとカラダ、自信への法則
空を見上げると、いつの間にかイワシ雲が流れています。
道場に入る日差しはまだ強烈な時もありますが、それでも傾き加減は秋の気配を感じさせてくれます。
昭和の原始人からしてみたら「夏の終わり」って何となく切なかったり寂しくて、どこかセンチメンタル(死語??)になりそうな、そんな印象だった気がします??
ですが、去り行く今年の凄まじい猛暑には、もう、清々するしかありません。
ホント、どうしようもなく酷い暑さでした。
気持ちでどうにか、なんて出来ませんって。
さて、道場では来月の大会に向けて皆ハッスル(これも死語なの??)しています。
大会出場の目的は「自信を付けること」それと「成長のための経験を積むこと」です。
自信と経験について学ぶことが出来たらよいと思います。
大会は大きなイベントであり、大きな目標です。
ただ、忘れてはいけないのは一つの機会に過ぎません。
当然、本気で挑むのは言うまでもありませんが、そこまでオオゴトに捉える必要はないのです。
皆、空手を習うそもそもの理由は将来に向けた自身の成長にあります。
将来の為の経験を積む、自信の掴み方を学ぶ、同時に成長(変化)を感じる、その目的の為に大会を利用するという事です。
それで「自信」についてですが、組手も型も「出れば負け」なんて生徒は沢山います。
すると「負け」=「苦手」=「自信をなくす」との考えから参加しなくなるケースがあります。
気持ちは良くわかります。
ですが、負けるのは自分自身、いわゆるカラダ。
「苦手」と「自信をなくす」のは気持ち(ココロ)です。
結論になりますが、自信を掴むためには、カラダがココロをリードしたい。
面倒だけどやらなきゃいけない、動揺しようがダルくても、体を動かさなきゃいけない。
それが、掃除や仕事、勉強や、それから護身も含めた、いわゆる生活です。
その結果、なにかしら終えれば気持ちよいし、ホッとできる部分があるわけです。
これら全てカラダがココロをリードしているのです!
たとえ危機的状況に陥り動揺したとして、体を正しく動かす事が出来れば安全です。
行動する=気持ちが前向きになる=自信を掴めるってことだと思います。
「試合に負ける、または負け続ける」ということですが、挑戦した事実は素晴らしいことで、本来は胸を張るべき立派なことです。
そこで、苦手意識に覆われてココロがカラダ(行動)の足を引っ張るのはとても残念に思いませんか。
折角の挑戦、壁に立ち向かったのにも関わらずそれを否定することになりますからね。
「苦手意識を持つと何も出来ない」なんて経験が必要でしょうか。
行動に制限を掛けることで経験は積めるでしょうか。
逃げることで胸を張ることは出来ません。
自信を掴むって勝つことだけではないのです。
具体的な課題を理解してカラダを使って稽古する。
たった一つの事、どんなに些細な事でも変化(成長)を把握出来れば、それは明確な自信だと思います。
例えば、組手が怖い、苦手だとします。
以前は苦手意識が体を包み、無意識のうちにそれを言い訳にして課題を理解しようともしなかった生徒が、腕の位置に気を配り、膝を曲げ懐を深く構えを決められるようになった。
握りが出来るようになった。
拳頭(パンチを当てる箇所)で突きを当てられるようになった。
等々、明確な課題は限りなく出てきます。
案外、苦手意識を持っているほうが灯台下暗しで、案外課題は見つけやすいのかも知れませんね。
今までは、気持ちが邪魔して向き合おうともしていなかっただけですから。
日常生活で例えるなら、勉強に苦手意識があるとします。
やらなきゃいけないのはわかってはいるけど、言い訳して何もやらない。
だから自信がもてない。
挙句「頭が悪い」と開き直り諦める。
よくないですね!
ですが、自信を掴むためには行動が必要、と理解して、例えば机や部屋の片づけをするとか。
結果、清々しい気分を勝ち取ることが出来て、それがキッカケで少し勉強する気になった、とか。
これも、体を動かしたことで胸を張れる、いわば自信から前向きになれた。
つまりココロがカラダにリードされた状況です。
よく「参加することに意義がある」と言いますが、「参加しないと始まらない」と言った方が正しい気がします。
「ただ参加すること」に意義はないと思います。
「目標に向けて、どれだけ準備したか」に意義は掛かってくるでしょう。
嫌ならやる、怖いなら試す、不安ならカラダを動かす。
ココロのささやきはカラダを使った後に聞けばよい。
明確な課題を持ちカラダを使って稽古する。
稽古の数だけ準備が整う。
準備の先に結果はおのずと付いてくる。
ガンバレ!!!
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