空手教典撮影秘話 in アラバマ 第三弾 ~思わぬ一時帰国~
内弟子は当時私を含めて4人いた。
(キャッチ画像、左からテツ先生、テル先生、寮長に私。3年間を共に過ごした。この4人で本部のキッズクラスは請け負っていたのだが、まあ、なんて恵まれた環境だったことだろう。)
一番下っ端だった私が、空手教典(教科書)では先輩を差し置いて出演回数が多いのには理由があった。
1997年の7月、私は学生ビザで渡米した。
学生ビザは一年毎の更新手続きをすれば、どこかに在学している最中はビザがおりる。
私は、アラバマ大学のELI(外国人向けに英語を学習するプログラム)に通うことになった。
アラバマ大学は、バーミンガムから車で1時間程走ったところにあるタスカルーサという街にあった。
街が近づくにつれて見えてくるのは巨大なコンクリの塊。
10万人収容のスタジアムだ。
それが、大学所有のものと聞いて驚いた。
ここは、カレッジフットボールが超がつくほど有名だと後から知った。
さておき、実際にタスカルーサに通ったのは最初の3カ月だけで、後は通常の内弟子生活を送っていた。
こうなると、一年後には大学から「おまえは学校に通っていないのだから日本へ帰りなさい」と、当然の通達が送られてきた。
内弟子になり1年後、思わぬカタチで帰国のチャンスが巡って来た。
正直、今後の不安よりも先に心の奥底から抑えきれない感情がフツフツと湧きたつのを感じた。
そんなこんなで、結局のところ今度はスポーツビザの取得を目指すことになったのだ。
スポーツビザは5年間滞在出来るとても強力なビザだった。
でも、その為には実績が必要。
日本人メジャーリーガーと同じ扱い、と言えばわかりやすいかも。
勿論、こっちは僅か1年前に空手を始めたばかりのド素人。
実績などありゃしない。
そこで急遽、私のスポビザ取得(実績づくり)大作戦が始まった、というわけだ。
当時、日本はK-1を筆頭に、ある種の格闘技ブームが起きていた。
格闘系、空手の雑誌も沢山あった。
ウチの最高師範も、格闘マガジンK(旧フルコンタクト空手)という月刊誌にコラムと技術解説の連載をしていた。
そこに実績作りの為に出演させてもらったのが最初だった。
その他には、友好団体でもある極真会館の松井館長から〇〇大会優勝というインチキな表彰状を作成してもらったりもした。
結局、空手教典に私が多く載っている理由もそれだった、というわけだ。
さて、スポーツビザが取れるまでの間はビザなし。
その間は3カ月毎に日本とアラバマを行き来する生活が続いた。
そういえば、最初に私が日本に帰った時、最高師範と先輩達は「マサはもう戻ってこないぜ!」なんて予測していたそうだ。
私にはアラバマに戻らないという考えは1ミリもなかった。
意思が強い、とかじゃなくて、そんなことを考える能力がなかっただけなんだけど、そこは「継続出来る才能があったんだ」と、後からテツ先輩が言ってくれた言葉に今は理解が出来る。
日本での滞在期間は、それなりに稽古していた。
大嫌いな腕立て伏せもそこそこやっていた。
それもこれも、胸を張ってアラバマに戻りたかったからに他ならない。
日本に帰っている内に弱くなった、とは絶対に言われたくなかった。
ただ、日記だけはサボっていた。
なので、アラバマに戻る際の経由地、アトランタ行きの飛行機の暗いスポットライトの下でペンを走らせていた。
アトランタまでは14時間で、たっぷり余裕はある。
でも、早く片付けてゆっくりしたかった。
毎度、成田発が夕方だったので、睡魔との戦いの中、ウニョウニョとミミズの様な字でどうにか書いていた。
結局、スポビザ取得までは2年くらい掛かったと思う。
その間、様々なラッキーと多くの人の協力があった。
子供の生徒の親(ロバートといったな)にたまたまイミグレーションロイヤー(移民問題やビザ関連等に従事した弁護士)がいたり、ダン=シグマンという当時のアラバマ州知事がたまたま本部の黒帯だったので、一筆書いてもらったりもした。
それに前述の極真会館、松井館長のご協力等、今思えば相当オオゴトだったという事がよくわかる。
勿論、それもこれも最高師範(師匠)のチカラ、お陰ということは言うまでもない。
今、私が誰よりもワールド大山空手を真っすぐ継承する自負を持ち、道場を構えて生徒の前に立っていられるのは、こうした人達のお陰だ。
それに、ここまで来たらその価値の返済は出来ていると思う。
さて、そんな大迷惑を掛けた末、ようやくゲットしたスポビザだったわけだけど、唯一私自身が遂行したミッションがあった。
それが、1998年の全日本選手権での優勝至上命令だった。
つづく
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